 | VENTURE SPOT 2009年8月号 | 一覧に戻る | |
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海皇 |
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<大型人気店で鍛えられた修行時代> |
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今回取材で訪れたのは、有限会社小龍(シャオロン)の阿部社長(49)。神戸育ちの阿部氏は、昭和
五七年に中華料理店「海皇(ハイファン)」や「陶陶居(とうとうきょ)」を経営していた神戸の企
業、株式会社海皇へ新卒で入社。平成十三年に退職するまでこの会社一本で勤め上げた。
海皇への入社はひょんなきっかけからだった。元々は警察官志望だったが受験に失敗、シーズン遅
れでたまたま受験した海皇で面接官の目に留まり、その日の内に合格が決定した。入社翌日から配属
されたのが、オープンしたばかり「銀座 陶陶居」。この店舗は140席以上の大型店で、さらにオー
プン直後から行列が絶えないという怒涛の忙しさだったが、阿部氏は初日から店長に一目置かれる働
きぶりを発揮する。実は阿部氏、学生時代にアルバイトで400席近い人気喫茶店の席割りを担当して
いたのだ。アルバイトながら常に空席を把握し、次に何人連れの客が来たらどの席に通すべきか、想
定をしながら席割をしていたため、阿部氏が働く日と休みの日では店の回転率と売上が大幅に変わっ
てしまうほどだったという。こうした経験も生かしながらめきめきと頭角を表した阿部氏は、創業社
長から経営ノウハウをみっちりと叩き込まれ、退職前には専務として会社の看板である大阪ヒルトン
プラザ店の店長を長く務めた。雇われた立場でありながら、一年中ほとんど休まずに熱心に働いてい
たという。
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<難立地で成功をおさめた「小龍」> |
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平成十三年にはついに独立を果たし、大阪シティエアターミアル(OCAT)内に一号店の「小龍」をオ
ープン。この場所はどんな商売も難しいと言われていたほどの難立地だったが、なんと一年目から繁
盛店を作り上げ、「OCATの奇跡」と噂されるほどになった。これだけ難しい場所で成功出来たポイン
トは二つ。腕の良い料理人を抱え品質のよい料理を提供出来たこと、そしてデザートに力を入れたこ
とだ。特にデザートは、奥さんの働きにより「小龍」の名を広く知らしめた。もともとマンゴープリ
ンと杏仁豆腐が好きで、年に一度は香港で食べ歩きをしていたという奥さんが、それまでの知識と経
験を総動員してレシピを開発。一日二十個限定で手作りしたマンゴープリンが、口コミで火がつきマ
スコミやネットで話題に。「小龍」の名前を一気に広める原動力となった。さらにデザートを目当て
に訪れた客が、「周辺エリアでも群を抜いていた」という料理の質とリーズナブルさに満足し、リピ
ーターとなっていった。
もちろん、すべてが順調なことばかりではなかった。翌年には二号店としてラーメン店をオープン
するも、軌道に乗せられずに半年で閉店。しかし、「投資額が小さなことで勉強ができてよかったで
す。順調にいっているときは、いかに視野が狭くなるかということも良くわかりました。撤退の決断
も早い段階ですることができました。」と失敗も自らの糧とした。
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<海皇(ハイファン)復興の担い手として> |
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こうして「小龍」の経営を行っていた阿部氏の下に、平成十七年、古巣の海皇が倒産したという知ら
せが飛び込んでいた。これまでの自分を培ってくれた会社がなくなるという辛い事態に、阿部氏は自
らが店長を務めていた大阪ヒルトンプラザの「陶陶居」を自社で買い取る決断をする。ただ資金面や
契約面を考えれば、独立して数年の阿部氏にこの好立地の店舗を引き継ぐというのはとても不可能な
こと。しかし、これまでの阿部氏の店長としての働きぶりを見ていてくれた取引先や物件オーナーの
様々な助けがあり、経営を引き継ぐことが出来た。店舗スタッフも阿部氏が引き継いでくれたことを
喜び、ほとんどが店に残ってくれたという。
さらにその後東京で「海皇」を出店しないかという誘いもあり、平成二十年三月に赤坂に「海皇」
をオープン。この時も飛び込みで入った金融機関の担当者がたまたま小龍の常連で、親身に相談に乗
ってもらうことができたなど、これまでの氏の働きぶりが様々な縁となって出店を実現することがで
きたという。店のオープンはリーマンショック後の大不況と重なり、開店当初は苦労もしたという
が、その後質の高い料理とサービスで順調に売上を伸ばしている。
今後は銀座の「陶陶居」の復興も手がけたいと話す阿部氏。多くの人を魅了してやまない「海皇」
ブランドと阿部氏の活躍に、これからも期待したい。
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会社名 : 有限会社小龍
店舗名 : 海皇
所在地 : 東京都港区赤坂4-3-6 HitotsugiLip 6F
T E L : 03-5574-8808
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